連日、話題に上っている某大学のアメフトの問題。
先日は、当該選手の記者会見。
それを受けた訳ではなく、文春バズーカーが発砲されるからの大学側の記者会見とも思えましたが…
イメージダウンの記者会見でしたね。
おそらく、双方ともに、ある程度、本当のところを話していますが、大学側は細かい微妙なところを隠しているのが明確になってしまった記者会見でした。
当該学生は、自分の言葉で、余すことなく淀みなく答えていました。
大学側は、表に出て表向きの謝罪をすることだけが目的で、全てを話すことが目的ではないことが明確に伝わってきました。
私もスポーツの現場に関わることがあるので理解をできる部分もあります。
潰してこい、思い切りいけ、最初からやれ…
おそらく、あのスポーツでは日常茶飯事に使われている言葉です。
また、体育会系とは…
指導者や上の言うことは絶対。
そんな社会になっており、素直を通り越して、服従性を求められることもあります。
そこに、説明をできることなどなくても、つべこべ言わずに言うことを聞けよ?
そんな文化が定着しているのは事実でしょう。
今回は、スマートフォンや記録メディアの向上なども関係して事件として発覚してしまったものと思われます。
記録に残っていない同様なことも、今までには多くあったのではないでしょうか?
だからこそ、大学側の責任者の方も、あんな感じなのでしょう。
怪我をさせるぐらいの強い気持ちがないといいプレーはできない。
そんなことを言いたかったのかもしれませんが…
怪我をさせてきたり、ラフプレーが当たり前ぐらいの歴史と文化が作られてきたという事実も関係しています。
結果として怪我をさせてしまってもスポーツだから仕方がないという文化があったのでしょう。
色んなことが重なって、今の時代に露呈して問題化したということだと思います。
事実は一つです。
そこを曖昧にしようとしているから、しどろもどろになってしまう訳です。
怪我をさせるぐらいの強い気持ちで思い切りいけ!
潰してこい!
この「怪我をさせるぐらいの」が言葉がなかったのでしょう。
「相手が怪我をしても仕方がない」という気持ちも指導者側にあったのも事実でしょう。
厳しい言葉を使うのが当たり前のような文化が育まれてしまったいたことに大きな時代との乖離が生まれたと感じます。
よくよく考察すると、戦前戦中の日本の社会構造と似ています。
責任者の姿は見えないけれど、絶対的な権力があり、それでいて表に出てこない。
でも、絶対的なものがあります。
わかっていながら、目的のためには手段は選ばないくらいの文化の醸成がなされています。
ある意味では、当該選手もコーチも、そして、相手側の選手、そして、某大学の学生さんも被害者です。
まあ、言った、言わないは別にして、そのように受け止めて起きてしまった事実には素直にならなければならない。
追い込むような指導をしたこと。
説明のできないことを指導したということに問題があります。
説明ができることをする。
説明ができないことをしてしまったから、大学側の会見は見ていて、腹立たしくもあり、滑稽でもありました。
隠そうとすることが、多くなれば、なるほどイメージは下がっていきます。
また、時間が流れれば、流れるだけ、隠したいことが多くなっていきますが、自然に隠れてしまうこともあります。
今回の件は、全てが、言葉が多そうでいて、実は言葉足らずで、忖度をしていることが多過ぎてしまっていると感じます。
また指導方法も論理的ではなく精神的要素が強い指導だったのでしょう。
大学側の会見を見ていても、そんなことを感じました。
ただし、教育機関としての大学としては、いかがなもの?
そう思う会見であったことは事実です。
謝罪だけが目的であり、事実を明確にすることが目的ではないことは伝わってきました。
また、会見を仕切る司会者の対応もいかがなものかと思いました。
コーチの方のしどろもどろな感じ。
コーチが言葉に詰まると、すかさず前監督が言葉をつなぐ姿。
前監督は修羅場をかいくぐってきた貫禄さえ感じられる対応。
ですが、そこには学生への愛情は微塵も感じられませんでした。
せっかくの謝罪が、逆にイメージダウンにつながりましたね。
自分たちは悪くない。
社会が悪いのだという気持ちが根底にあるから、あのような会見の仕切りになるのでしょう。
確かに、指導方法として、つべこべ言わずに黙って聞いて、黙ってやりましょう?
できるようになってから、つべこべ言ってごらん?
そんな指導法もあるのも事実です。
できるようにならないとわからないこともあるのも事実です。
何が正しいのか?
実は全て正しいのですが…
時代や状況により、正しいことは変わるのも現実ですね。
この問題…
私は教育の一環として起こっていることなので注目しています。
報道に注目しているのも事実ですが、この問題の陰で報道されていない他の現実もあります。
報道機関にはバランスよく現実を報じて欲しいと思います。